2008年11月28日
真剣であれ
長田先生とは成人式ぶり。
そして奥様のいそ子先生とは中学卒業ぶりだから、
なんと20年近くぶり。
それでもお二人はほとんどあの頃と変わりなく、
ただ三人姉妹の長女が18歳だった(!)
というのが時間の経過を実感させてくれた。
もちろん、彼女たちに会うのはその日が初めて。
元気で明るい彼女たちの、
生まれる以前の歴史を知っているというのも
面白い体験だった。
温泉に浸かって旅の疲れも飛んだところで、
家族みんなに、同僚の先生も加わって、
近くの居酒屋に飲みにいく。
昔話に花が咲いたのは当然だが、
すっかり忘れていた原体験を思い出した。
陸上部のメンバーが文化祭でやらされた”やっこ”という踊り。
当時、意味も分からずやっていたあの踊りは、
沖永良部島の伝統芸能だったのだ。
こちらは全く覚えていなのだが、
ボクらはその芸能を、今度は卒業式で
全く違う当時流行の曲で踊ったらしい。
伝統の踊りを現代の音楽で。
それが20年後、仕事になっているとは、
誰も想像だにしなかった。
さて、このブログでも書いた卒業式での先生の言葉。
その裏話を聞くことが出来た。
あの頃、生徒であるボクらから見ても仲の良かった
松山中の先生たち。当時、年齢も出身地もばらばらな
その先生たちで、しきりに”議論”を交わしていたことがあったという。
それは、
縁もゆかりも無い”この土地”で子どもたちに何を伝えるべきか!
そしてその答えこそが、
”郷土を誇れる人になってください”
の一言だったという。
考えてみれば、その頃先生は20代。
今の僕より若かった。
だから、何かを悟ったような立派な答えを持っているはずも無い。
それでも、本気で同僚の先生たちと語り合っていた。
ただひたすらに熱い、そんな真剣な大人たちに
ボクたちは守られていた。
そう、あの頃確かに”守られている”という実感があった。
先生の裏話から確信したこと。
それは確実な答えを持っていなくとも、
本気の大人であれということ。
そんな本気の近くにいる子どもたちは、
まず幸せだということ。
今度は自分が、そのことを伝えていく番なのだ。
そして奥様のいそ子先生とは中学卒業ぶりだから、
なんと20年近くぶり。
それでもお二人はほとんどあの頃と変わりなく、
ただ三人姉妹の長女が18歳だった(!)
というのが時間の経過を実感させてくれた。
もちろん、彼女たちに会うのはその日が初めて。
元気で明るい彼女たちの、
生まれる以前の歴史を知っているというのも
面白い体験だった。
温泉に浸かって旅の疲れも飛んだところで、
家族みんなに、同僚の先生も加わって、
近くの居酒屋に飲みにいく。
昔話に花が咲いたのは当然だが、
すっかり忘れていた原体験を思い出した。
陸上部のメンバーが文化祭でやらされた”やっこ”という踊り。
当時、意味も分からずやっていたあの踊りは、
沖永良部島の伝統芸能だったのだ。
こちらは全く覚えていなのだが、
ボクらはその芸能を、今度は卒業式で
全く違う当時流行の曲で踊ったらしい。
伝統の踊りを現代の音楽で。
それが20年後、仕事になっているとは、
誰も想像だにしなかった。
さて、このブログでも書いた卒業式での先生の言葉。
その裏話を聞くことが出来た。
あの頃、生徒であるボクらから見ても仲の良かった
松山中の先生たち。当時、年齢も出身地もばらばらな
その先生たちで、しきりに”議論”を交わしていたことがあったという。
それは、
縁もゆかりも無い”この土地”で子どもたちに何を伝えるべきか!
そしてその答えこそが、
”郷土を誇れる人になってください”
の一言だったという。
考えてみれば、その頃先生は20代。
今の僕より若かった。
だから、何かを悟ったような立派な答えを持っているはずも無い。
それでも、本気で同僚の先生たちと語り合っていた。
ただひたすらに熱い、そんな真剣な大人たちに
ボクたちは守られていた。
そう、あの頃確かに”守られている”という実感があった。
先生の裏話から確信したこと。
それは確実な答えを持っていなくとも、
本気の大人であれということ。
そんな本気の近くにいる子どもたちは、
まず幸せだということ。
今度は自分が、そのことを伝えていく番なのだ。
2008年11月25日
イルミネーションの中で
いい旅だった。
久しぶりの東京はイベントの出演を日中で済ませ、
立て続けの再会に沸いた。
40周年を迎えた
飯田稔教授(現・びわこ成蹊スポーツ大学学長)の主催する
幼少年キャンプ研究会。
そのパーティには間に合わなかったけど、
夜の二次会にて師匠・飯田先生と、
そして”あの頃”小学生だった花山キャンパーたちと出会う。
まったく元気な67歳の飯田先生と、
すっかり大人になってしまったキャンパーたち。
ボクの当時のキャンプネームは”りすざる”で、
10年ぶりにその名前で呼ばれた。
ボクがまったく覚えていない
小さな小さなエピソードを、
嬉しそうに語ってくれる教え子たちを前に、
くすぐったいような気分。
そして自分のことを覚えていてくれる、
それだけのことがどんなに嬉しいことか
思い知る。
「あなたに支えられてます・・」
そのコトバにボクが支えられてます。
今年から東京での暮らしをはじめた
「ヒメヒコ」卒業生とも
ビールとウーロン茶で乾杯。
赤提灯のガード下焼き鳥屋だったけど、
小さなテーブルをはさんで、いつになく語ってしまった。
地下鉄の改札に小さな背中を見送ると、
自分の身も引き締まるのを感じる。
彼らがボクらの背中を見て、
この大都会で夢を追いかけているのだと
分かってしまうから。
ボクに夢を与えてくれた師匠。
そしてボクと出会い夢を描いてくれた子どもたち。
銀座の街を歩く。
イルミネーションの大都会は
相変わらずモノ、欲、お金という
幻想が整然と並んでいた。
そんな光の渦のど真ん中を歩いていたから
お金で買えないモノの、あったかさが分かってしまった。
ボクらを励まし、守ってくれる”関係”という目に見えないモノ。
そしてこの旅の最後は、
今年の夏にブログでも書いたN先生との再会へと続く・・・
久しぶりの東京はイベントの出演を日中で済ませ、
立て続けの再会に沸いた。
40周年を迎えた
飯田稔教授(現・びわこ成蹊スポーツ大学学長)の主催する
幼少年キャンプ研究会。
そのパーティには間に合わなかったけど、
夜の二次会にて師匠・飯田先生と、
そして”あの頃”小学生だった花山キャンパーたちと出会う。
まったく元気な67歳の飯田先生と、
すっかり大人になってしまったキャンパーたち。
ボクの当時のキャンプネームは”りすざる”で、
10年ぶりにその名前で呼ばれた。
ボクがまったく覚えていない
小さな小さなエピソードを、
嬉しそうに語ってくれる教え子たちを前に、
くすぐったいような気分。
そして自分のことを覚えていてくれる、
それだけのことがどんなに嬉しいことか
思い知る。
「あなたに支えられてます・・」
そのコトバにボクが支えられてます。
今年から東京での暮らしをはじめた
「ヒメヒコ」卒業生とも
ビールとウーロン茶で乾杯。
赤提灯のガード下焼き鳥屋だったけど、
小さなテーブルをはさんで、いつになく語ってしまった。
地下鉄の改札に小さな背中を見送ると、
自分の身も引き締まるのを感じる。
彼らがボクらの背中を見て、
この大都会で夢を追いかけているのだと
分かってしまうから。
ボクに夢を与えてくれた師匠。
そしてボクと出会い夢を描いてくれた子どもたち。
銀座の街を歩く。
イルミネーションの大都会は
相変わらずモノ、欲、お金という
幻想が整然と並んでいた。
そんな光の渦のど真ん中を歩いていたから
お金で買えないモノの、あったかさが分かってしまった。
ボクらを励まし、守ってくれる”関係”という目に見えないモノ。
そしてこの旅の最後は、
今年の夏にブログでも書いたN先生との再会へと続く・・・
2008年11月16日
自信
アーティストとして仕事は、時として”才能”と
くくられてしまうことが多い。
何を言いたいのかというと、
20代の頃から、
「・・・できる才能があるからいいですね」
と言われることが多かった。
ここで努力か才能かという話をしたいのではなく、
当時のボクはなんら実感も自信も持てなかったのだ。
時は流れ、鹿児島に戻ってきて1年半。
はじめて、自分の適性が、本当に得意なことに
気付きはじた・・そんな自覚がある。
きっかけは、アウトドアライターの
ホーボージュンさんが僕の歌を初めて聞いて、
「これは物語だね。舞台だね」
と即座に言った時のこと。
「人間、ホントの才能なんて、たかが一個だと思うよ」
とさわやかに笑っていた。
すこし吹っ切れた感じがした。
誰もが複数の可能性を持っている。
無限の適性、才能があると信じたい。
が、その中の一つを半ば強引に選んでしまうこと、
決めつけてしまうことも時に必要なんだ。
そんなことに今頃気付くなんて・・
少し恥ずかしい話でもある。
何はともあれ、迷いはどこかへ飛んでしまった。
今のボクは、あえて自分の能力の方向を決めつけてしまった。
腹をくくってしまえば、力もわいてくるから不思議だ。
34歳。
ほんの少しの自信を手に入れたこの時を覚えておこう。
くくられてしまうことが多い。
何を言いたいのかというと、
20代の頃から、
「・・・できる才能があるからいいですね」
と言われることが多かった。
ここで努力か才能かという話をしたいのではなく、
当時のボクはなんら実感も自信も持てなかったのだ。
時は流れ、鹿児島に戻ってきて1年半。
はじめて、自分の適性が、本当に得意なことに
気付きはじた・・そんな自覚がある。
きっかけは、アウトドアライターの
ホーボージュンさんが僕の歌を初めて聞いて、
「これは物語だね。舞台だね」
と即座に言った時のこと。
「人間、ホントの才能なんて、たかが一個だと思うよ」
とさわやかに笑っていた。
すこし吹っ切れた感じがした。
誰もが複数の可能性を持っている。
無限の適性、才能があると信じたい。
が、その中の一つを半ば強引に選んでしまうこと、
決めつけてしまうことも時に必要なんだ。
そんなことに今頃気付くなんて・・
少し恥ずかしい話でもある。
何はともあれ、迷いはどこかへ飛んでしまった。
今のボクは、あえて自分の能力の方向を決めつけてしまった。
腹をくくってしまえば、力もわいてくるから不思議だ。
34歳。
ほんの少しの自信を手に入れたこの時を覚えておこう。
2008年11月09日
外のスケール
冬が舞い降りたような寒空。
講演会を聴きに仙厳園へ行く。
「島津斉彬の進めた日本の近代化」について。
来年が斉彬の生誕200周年である。
篤姫のブームで、斉彬も全国的に有名になったが、
彼が薩摩藩を治めたのは、実はほんの7年間であった。
そしてあまり目立ってはいないが
斉彬の業績である製鉄などの近代工業化は、
世界遺産暫定リストに登録されるほど、
世界的な評価が高いようだ。
そんな彼についての話を聴きながら、
斉彬を主人公に舞台を作るとしたら
どんな物語が成り立つだろうかと考えていた。
ボクが思う斉彬は開国前の日本でただ一人、
世界との開きを分かっていた人ではなかったかと思う。
ペリー来航前から、薩摩藩には度々黒船が現れている。
法により大きいフネは製造できなかった当時の日本に、
見たこともないような蒸気帆船がやってくる。
そんなフネの向こう側に斉彬は、
日本がとっくに置いて行かれている現実を、
絶望的とも言えるその距離を
瞬時に察知したに違いない。
あぁ、薩摩藩だ、幕府だと言っている場合じゃない。
あっと言う間に、日本は世界に飲みこまれるんだと
分かってしまった彼だからこそ、
明治より以前から”富国強兵”と打ち出せたのだ。
国造りには人の和が最も大事。
そのためには国が豊でないといけない。
そう説いた斉彬は、だれよりも地元薩摩を
本気で考えた人ではなかったのか。
内側を考えたからこそ、外側に目を向けていたのだ。
地域にこだわるということは、
小さな範囲で物事を考えることでは決してない。
どれだけ広大な外側のスケールを持ち得るかということだ。
斉彬の没後、資金を要する近代工業化はいったん火を消してしまう。
直後、薩英戦争でイギリスの武力に、ついに直接触れた薩摩藩は、
ふるえが止まらなかったことだろう。
世の中がまだ空想だと思っている絵を、
本気で描けるリーダーが必要なのかも知れない。
講演会を聴きに仙厳園へ行く。
「島津斉彬の進めた日本の近代化」について。
来年が斉彬の生誕200周年である。
篤姫のブームで、斉彬も全国的に有名になったが、
彼が薩摩藩を治めたのは、実はほんの7年間であった。
そしてあまり目立ってはいないが
斉彬の業績である製鉄などの近代工業化は、
世界遺産暫定リストに登録されるほど、
世界的な評価が高いようだ。
そんな彼についての話を聴きながら、
斉彬を主人公に舞台を作るとしたら
どんな物語が成り立つだろうかと考えていた。
ボクが思う斉彬は開国前の日本でただ一人、
世界との開きを分かっていた人ではなかったかと思う。
ペリー来航前から、薩摩藩には度々黒船が現れている。
法により大きいフネは製造できなかった当時の日本に、
見たこともないような蒸気帆船がやってくる。
そんなフネの向こう側に斉彬は、
日本がとっくに置いて行かれている現実を、
絶望的とも言えるその距離を
瞬時に察知したに違いない。
あぁ、薩摩藩だ、幕府だと言っている場合じゃない。
あっと言う間に、日本は世界に飲みこまれるんだと
分かってしまった彼だからこそ、
明治より以前から”富国強兵”と打ち出せたのだ。
国造りには人の和が最も大事。
そのためには国が豊でないといけない。
そう説いた斉彬は、だれよりも地元薩摩を
本気で考えた人ではなかったのか。
内側を考えたからこそ、外側に目を向けていたのだ。
地域にこだわるということは、
小さな範囲で物事を考えることでは決してない。
どれだけ広大な外側のスケールを持ち得るかということだ。
斉彬の没後、資金を要する近代工業化はいったん火を消してしまう。
直後、薩英戦争でイギリスの武力に、ついに直接触れた薩摩藩は、
ふるえが止まらなかったことだろう。
世の中がまだ空想だと思っている絵を、
本気で描けるリーダーが必要なのかも知れない。
2008年11月04日
旅と地元と
週末は久しぶりの小旅行。
琵琶湖に行ってきた。
ボクも長く愛用するフェザークラフトカヤックスの
ダグ社長や、大瀬兄貴に会いに。
初めて行った奥琵琶湖マキノというところ。
湖畔には日本古来の民家が立ち並び、
日本人なのに、「日本に来た〜」と唸ってしまう。
自然も街も、まだまだ出会っていない
”にっぽん”があるんだろうと思う。
そして旅は結局のところ”人に会う”ことに尽きる。
今回もたくさんの方々に出会うことができた。
戻るとさっそく舞台の合同稽古。
約40人の高校生とガチンコ勝負だ。
今年のヒメヒコも新らしいシーンや曲も加わり、
一年間の経験がそのまま舞台に活かされている。
帰りの車を運転しながらしみじみと思った。
旅をすること。
感動を持ち帰り、地元で還元すること。
これがボクには合っているし、何よりも楽しい。
いっきに暮れていく秋の鹿児島。
いまここでしか見られない風景に
出会いにいこう。

ダグと大瀬氏。

近所のコスモス畑
琵琶湖に行ってきた。
ボクも長く愛用するフェザークラフトカヤックスの
ダグ社長や、大瀬兄貴に会いに。
初めて行った奥琵琶湖マキノというところ。
湖畔には日本古来の民家が立ち並び、
日本人なのに、「日本に来た〜」と唸ってしまう。
自然も街も、まだまだ出会っていない
”にっぽん”があるんだろうと思う。
そして旅は結局のところ”人に会う”ことに尽きる。
今回もたくさんの方々に出会うことができた。
戻るとさっそく舞台の合同稽古。
約40人の高校生とガチンコ勝負だ。
今年のヒメヒコも新らしいシーンや曲も加わり、
一年間の経験がそのまま舞台に活かされている。
帰りの車を運転しながらしみじみと思った。
旅をすること。
感動を持ち帰り、地元で還元すること。
これがボクには合っているし、何よりも楽しい。
いっきに暮れていく秋の鹿児島。
いまここでしか見られない風景に
出会いにいこう。

ダグと大瀬氏。

近所のコスモス畑