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Posted by チェスト at

2012年05月10日

歴史を知ること

以前から読もう読もうと思っていた浅田次郎著「蒼穹の昴」、その続編「珍妃の井戸」、「中原の虹」文庫本にして全9冊。この一ヶ月かけて今日読み終えた。その期間、寝ても覚めても私の頭の中は中国(清)の歴史を作った壮士たちの物語で占められており、繰り広げられるドラマのまっただ中に自分もいるような最高の読書体験であった。今は読破してしまった余韻と、今まで一番苦手にしていた歴史小説へのイメージが180度変わってしまうほどの衝撃に、とりあえず頭の中を整理したいとこのブログを綴っている。

この一連の小説では時の皇族や軍人、政治家が話を進めていくのだが、それを取り巻く登場人物の中には芸術家もいる。ヨーロッパからキリスト教の伝道師として清に派遣された彼らが、政治や宗教、己の役割の間で揺れ動きながらも、自身の追い求めた芸術の価値について悟っていくさまが興味深い。「中原の虹」の最終章にて乾隆帝の意志により龍玉を抱き地中に潜ったカスティリオーネが、生死の狭間でこう悟る。
「・・・私たちが求めた芸術とは神々の造り給うた天然の、人為的模倣であると私は考えます。むろんその原理からすれば、芸術は永遠に天然の造形を凌ぐはずはありません。すなわち芸術は無力で無意味です。ではなぜ私たちは、かのシジュポスのように、永遠に到達することのできない美の頂きをめざそうとするのでしょう。その理由はただひとつ。人間は感情を注入することによって、無感情な天然の造形を超克できるから。神には造れぬものでも、人間は造り出せるから。それが芸術の実力であり、意味であると私は悟りました。たとえば、描かれた花は天然の花の美しさには及ばない。しかし、愛する人に胸の思いを込めて描いた花は、おそらく天然の花に増して美しい。それは天然の営みに比べれば、ほんの取るに足らない、一瞬の美には違いないけれど、贈られた人はお花畑に埋もれるよりも、幸福を感じることでしょう。・・・・」
 どきっとさせられたセリフである。技術を得ることに拘泥し、そのレベルを他者と比較することに心を奪われがちな私たち芸術家気取りに、真心を注入するという人間として当たり前でかつ最も大事なことを忘れるなと言っている。あくまで人工の芸術が天然を凌駕するとすれば、それは人の想いをもってしかないのだ。

もう一つ印象的なセリフを。さきほど歴史小説に対する見方が変わったと書いたが、物語を楽しみながらもすなわち歴史を学ぶことの意義について考えていた。その答えに近いセリフがこれも最終章に登場する。
「よいかね、潔珊。生きとし生くる者みなすべて、歴史を知らねばならぬ。なるべく正しく、なるべく深く。何となれば、いついかなる時代に生くる者も、みな歴史上の一人にちがいないからである。では、いったい何ゆえに歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。父の時代、祖父の時代、父祖の時代を正確に知らねば、おのれがかくある幸福や不幸の、その原因も経緯もわからぬであろう。幸福をおのが天恵とのみ信ずるは罪である。罪にはやがて罰が下る。おのが不幸を嘆くばかりもまた罪である。さように愚かなる者は、不幸を覆すことができぬ。わかるかね、潔珊。しからば私は、この老骨に鞭ってでも、能う限りの正しい歴史を後世の学者たちに遺さねばなるまい。人々がかくある幸福に心から謝することが叶うように。人々がかくある不幸を覆し、幸福を得ることの叶うように」

もちろん、これらのセリフは激動のストーリーのまっただ中で発せられる言葉なので、物語の途中で出会った方が感動も大きいのは言うまでもないが、あえて抜き出してみた。遙かなる大陸の時代から始まったこの物語が、少しずつ時を刻み最新刊の冒頭は昭和初期である。前述のセリフに習って自分の座標を思えば、私の父は満州生まれ。祖母は親の決めた結婚に反対し、単身中国に渡り満州鉄道で働いていた祖父と出会い結婚したと聞くから、いよいよ自分自身の歴史を意識せざるをえない。歴史を知ることはとはつまり今を知ることであり、自分を知ることだ。幸せに感謝する心、不幸ならば覆す力。未来を指し示すおおいなる指針なのである。
  


Posted by taro at 09:49Comments(2)読書