2009年03月29日
サクラの木の下で
鹿児島はサクラが満開。
少し肌寒い夜だが、
あちこちで花見のにぎやかな
声が聞こえてくる。
本当に律儀に、この時期に
花を咲かせてくれるサクラ。
ある友人が、
季節の行事を大切にしよう
と話していた。
花見も大昔から営まれてきた
そんな行事なのだとしたら、
それは歴史を感じる
機会なのかもしれない。
立派な一本のサクラの木の下で
想いを馳せてみる。
毎年、同じこの場所、
十日と違わないこの時期に
人々が集い、夢を語り合う。
そんな想像をしてみた。
映画「レッドクリフ」を見た。
内容はともかく、
大胆なハリウッドの演出による
アジア的美しさが印象的だった。
男性も女性も、そして衣装も、
立ち振る舞いも。
映画スターと言えば、
彫りの深い西洋人が当たり前という
ボクの世代にとっては、
あの胴長で一重まぶたの
スターたちが活躍する姿は、
誇らしくもあり、
自分たちが忘れ捨て去っているものの
大きさを思い知らされもする。
和服も確実にブームである。
何でも自由に選べる
ありとあらゆる服の中から、
とりあえず選ぶというのが、
今のボクらにとっての和服だ。
それはそれで悪くはないのだが、
時代や文化が強制する服の
美しさは、また別格な気がする。
たとえ見た目が一緒でも、
背負っているものが違う。
服にも背景があり、ストーリーがある。
毎日の服装が自由な自分は、
ユニフォームに憧れることがある。
たとえば消防士や警官。
そこに使命や任務、特殊な技術など
その服の内側に潜む肉体にまで思いが及ぶ。
自分の生き方すら、
カタログを眺める感覚で
自由に選べるこの時代に、
強制や、束縛から生まれる
文化や美は忘れられて
当然なのかもしれない。
それはあなたが不自由して
いないから言えるんだよ、
そう言われるかもしれない。
しかし美しさというものが、
単にお金では買えないことは
多くの人が納得してくれると思う。
短命だから美しい
はらはらと散るサクラの花びら。
そんな風景と重なりながら、
人の営みと”美”の関係について
思いはあてどなく巡る。
少し肌寒い夜だが、
あちこちで花見のにぎやかな
声が聞こえてくる。
本当に律儀に、この時期に
花を咲かせてくれるサクラ。
ある友人が、
季節の行事を大切にしよう
と話していた。
花見も大昔から営まれてきた
そんな行事なのだとしたら、
それは歴史を感じる
機会なのかもしれない。
立派な一本のサクラの木の下で
想いを馳せてみる。
毎年、同じこの場所、
十日と違わないこの時期に
人々が集い、夢を語り合う。
そんな想像をしてみた。
映画「レッドクリフ」を見た。
内容はともかく、
大胆なハリウッドの演出による
アジア的美しさが印象的だった。
男性も女性も、そして衣装も、
立ち振る舞いも。
映画スターと言えば、
彫りの深い西洋人が当たり前という
ボクの世代にとっては、
あの胴長で一重まぶたの
スターたちが活躍する姿は、
誇らしくもあり、
自分たちが忘れ捨て去っているものの
大きさを思い知らされもする。
和服も確実にブームである。
何でも自由に選べる
ありとあらゆる服の中から、
とりあえず選ぶというのが、
今のボクらにとっての和服だ。
それはそれで悪くはないのだが、
時代や文化が強制する服の
美しさは、また別格な気がする。
たとえ見た目が一緒でも、
背負っているものが違う。
服にも背景があり、ストーリーがある。
毎日の服装が自由な自分は、
ユニフォームに憧れることがある。
たとえば消防士や警官。
そこに使命や任務、特殊な技術など
その服の内側に潜む肉体にまで思いが及ぶ。
自分の生き方すら、
カタログを眺める感覚で
自由に選べるこの時代に、
強制や、束縛から生まれる
文化や美は忘れられて
当然なのかもしれない。
それはあなたが不自由して
いないから言えるんだよ、
そう言われるかもしれない。
しかし美しさというものが、
単にお金では買えないことは
多くの人が納得してくれると思う。
短命だから美しい
はらはらと散るサクラの花びら。
そんな風景と重なりながら、
人の営みと”美”の関係について
思いはあてどなく巡る。
2009年03月20日
勝負
めずらしくテレビに釘付けの日々。
WBCは、面白い。
日本vs韓国の戦いは、
毎度興奮する。
日本に対しては、
相当にムキになる韓国チーム。
ここのところやられっぱなしの
日本チームが今日は快勝。
しかし、まだ分からない。
どっちが強いのか。
その力比べ、ガチンコ勝負が
本当に面白い。
長いこと戦ってないような気がした。
もちろん自分のこと。
日々の新しい挑戦、
自分との戦いは
自然とやっているのだろうが、
ムキになる戦い、
涙を流すほどの悔しさを
味わっていないなぁと思う。
大人になると負け方もうまくなる。
まるで負けてないように上手くごまかせるようになる。
みじめに負けと向き合うのは、
精神的ダメージも大きいもの。
だけどヒリヒリするような勝負。
そんな空気の中でしか得られないモノがあったはずだ。
本気の負けからしか学べないモノがあったはずだ。
あの頃あんなに熱くなっていたじゃないか。
ああ、すっかり忘れていた。
そんな思いがこみ上げてきた。
今のうのうとブログを書いているこの瞬間にさえ、
僕よりずっと才能のある者が
身を削るような努力に明け暮れている・・・
そんな空想を忘れないようにしようと思った。
空想の世界のそんなライバルたち。
いや絶対に存在するライバルを思うと、
ぞくぞくしてくる。
勝って勝って、
負けて負けて、
また負けて。
その先の、本当の自分に出会おう。
WBCは、面白い。
日本vs韓国の戦いは、
毎度興奮する。
日本に対しては、
相当にムキになる韓国チーム。
ここのところやられっぱなしの
日本チームが今日は快勝。
しかし、まだ分からない。
どっちが強いのか。
その力比べ、ガチンコ勝負が
本当に面白い。
長いこと戦ってないような気がした。
もちろん自分のこと。
日々の新しい挑戦、
自分との戦いは
自然とやっているのだろうが、
ムキになる戦い、
涙を流すほどの悔しさを
味わっていないなぁと思う。
大人になると負け方もうまくなる。
まるで負けてないように上手くごまかせるようになる。
みじめに負けと向き合うのは、
精神的ダメージも大きいもの。
だけどヒリヒリするような勝負。
そんな空気の中でしか得られないモノがあったはずだ。
本気の負けからしか学べないモノがあったはずだ。
あの頃あんなに熱くなっていたじゃないか。
ああ、すっかり忘れていた。
そんな思いがこみ上げてきた。
今のうのうとブログを書いているこの瞬間にさえ、
僕よりずっと才能のある者が
身を削るような努力に明け暮れている・・・
そんな空想を忘れないようにしようと思った。
空想の世界のそんなライバルたち。
いや絶対に存在するライバルを思うと、
ぞくぞくしてくる。
勝って勝って、
負けて負けて、
また負けて。
その先の、本当の自分に出会おう。
2009年03月16日
月刊「焚き火ライブ」
今週末は久しぶりに鹿屋へ。
毎月、第4日曜は月刊「焚き火ライブ」だ。
今回は三年目へ突入の記念ということで、
僕も声をかけてもらえた。
ここのところ3ヶ月連続で
関わらせてもらっている。
このライブは本当に手作り/手弁当で、
鹿屋の音楽仲間が開いているイベントだ。
場所はリナシティ前の河川敷ステージ。
もちろん、生(?)の焚き火が揺らめいている。
しかし、こっれが本当に面白いイベントなのだ。
まずMC木原さんの本格的、
甘ーいヴォイスがイベントを牽引する。
出てくるのはジャンルも実力もさまざまなバンド、
弾き語り、ダンサーetc.
先月のトップバッター「肝属川河川美化推進委員会(たぶんこんな名前)」
も最高だった。
「あ・ま・く・だ・りぃ!」と痛烈なメッセージソングを
なんともポップなメロディに乗せて、
お茶目に叫んでいた。
僕も叫んだ!
たぶん都会のイベントには
出場できないバンドかもしれない。
(ごめんなさい)
でも僕は何度でも見たい。
一緒に叫びたい。
地元楽器店のオーナーや、
半農半芸シンガー/東ユージさんらとの
セッションも楽しかった。
打ち上げでユージさんに話した。
「バスに横断幕つけて、鹿屋焚き火ライブ軍団で、
ツアーしましょうよ!」
ユージさんは「いいねー、がっはっは」
と笑っていた。
ここの仲間はみな、自分たちが一番楽しんでいる。
外からどう見られようと、
東京の音楽シーンがどうであろうと関係ない。
マズハ俺タチガ楽シム精神を貫いている。
だからみんなが寄ってくる。
仲間に入りたいな〜と思わせる。
もちろん誰に対してもオープンだ。
地元の人。
移住してきた人。
わざわざ遠くからやってくる人。
屋台の兄ちゃんたち。
焚き火はみんなの顔を照らす。
地域のイベントはこうでいいと思う。
等身大でいい。
楽しそうに笑っている人のところに、
人はまた集うのだ。
ちっぽけで偉大なる愛しのイベント
月刊「焚き火ライブ」。
次の日曜、夕方6時頃から!
ホームページはこちら。
http://www.aply.jp/takibi/
毎月、第4日曜は月刊「焚き火ライブ」だ。
今回は三年目へ突入の記念ということで、
僕も声をかけてもらえた。
ここのところ3ヶ月連続で
関わらせてもらっている。
このライブは本当に手作り/手弁当で、
鹿屋の音楽仲間が開いているイベントだ。
場所はリナシティ前の河川敷ステージ。
もちろん、生(?)の焚き火が揺らめいている。
しかし、こっれが本当に面白いイベントなのだ。
まずMC木原さんの本格的、
甘ーいヴォイスがイベントを牽引する。
出てくるのはジャンルも実力もさまざまなバンド、
弾き語り、ダンサーetc.
先月のトップバッター「肝属川河川美化推進委員会(たぶんこんな名前)」
も最高だった。
「あ・ま・く・だ・りぃ!」と痛烈なメッセージソングを
なんともポップなメロディに乗せて、
お茶目に叫んでいた。
僕も叫んだ!
たぶん都会のイベントには
出場できないバンドかもしれない。
(ごめんなさい)
でも僕は何度でも見たい。
一緒に叫びたい。
地元楽器店のオーナーや、
半農半芸シンガー/東ユージさんらとの
セッションも楽しかった。
打ち上げでユージさんに話した。
「バスに横断幕つけて、鹿屋焚き火ライブ軍団で、
ツアーしましょうよ!」
ユージさんは「いいねー、がっはっは」
と笑っていた。
ここの仲間はみな、自分たちが一番楽しんでいる。
外からどう見られようと、
東京の音楽シーンがどうであろうと関係ない。
マズハ俺タチガ楽シム精神を貫いている。
だからみんなが寄ってくる。
仲間に入りたいな〜と思わせる。
もちろん誰に対してもオープンだ。
地元の人。
移住してきた人。
わざわざ遠くからやってくる人。
屋台の兄ちゃんたち。
焚き火はみんなの顔を照らす。
地域のイベントはこうでいいと思う。
等身大でいい。
楽しそうに笑っている人のところに、
人はまた集うのだ。
ちっぽけで偉大なる愛しのイベント
月刊「焚き火ライブ」。
次の日曜、夕方6時頃から!
ホームページはこちら。
http://www.aply.jp/takibi/
2009年03月08日
涙

国分中央高校ダンス部の
三年生を送る会「卒部式」に、
参加させてもらった。
いつもの稽古場を、
1、2年生がデコレーション。
そしてお菓子に記念品まで
すべてが手作りの
ささやかで温かい会だった。
後輩たちが一人ずつ、あいさつをする。
卒業していく偉大な先輩たちに向けて、
たくさん迷惑をかけたこと。
一緒に全国の舞台立てたこと。
一人が涙をながすと
また一人。
涙なみだの
お別れ会になった。
僕も高校時代は部活一色だった。
陸上という個人種目ではあったけれど、
あの時、仲間たちと過ごした時間、
ともに見た夕日は、いまだ色あせない。
日が暮れていく時間のほとんどを、
土埃の匂う、グランドの上で過ごした。
欲しいものなど何もなかった。
ただ放課後だけが永遠に続いてほしかった。
このダンス部とつきあってきて、
一年生が二年生になり、
二年生が三年生にちゃんと
なっていくことを知った。
当たり前なのだけど。
成長とはいったい何なのだろう。
次々と自ら殻を破っていく高校生を
見るたびに、胸がジンとなる。
そして三年生が去った後、
次の作品についての
ミーティングが始まった。
テーマの議論は白熱し、
誰もが真剣だからこそ
またそこで流れる涙。
昨年、全国三位のプレッシャーも
あるだろう。
もちろん、たった一度の実績に
あぐらをかくような子たちじゃない。
だからこそ僕は伝えたかった。
日本中に君たちに破れ涙した
何百ものダンス部がいることを
想像してほしいと。
彼らはきっと、
憧れであり、最大のライバルとして
君たちを追いかけ、今この瞬間も
汗を流しているはずだと。
嬉しいじゃないか。
身が引き締まるじゃないか。
勝ち負けがすべてじゃないけれど、
勝負からしか学べない美学がある。
そのど真ん中で、どうどうと戦ってほしい
と思った。
今年もまた、無数の涙が流れるだろう。
栄光、挫折、歓喜、後悔、感謝、惜別の涙が。
雨上がりの星ぞらのように、
きらきらときれいな涙が。
2009年03月02日
春はもうすぐ
週に一度、鹿屋に足を運んでは、
あいさつ周りなどもろもろ。
通い詰めた稽古場は、
また普段の空気に戻っていた。
写真家の日高裕之さんが、
ヒメヒコのオリジナルフォトブックを
作ってくれると言って下さったので、
寄稿した。
終わりがあるという感動
今年も高校生ミュージカル「ヒメとヒコ」の公演が終わった。ちょうど一年越しに実現した二回目の公演。第一回は、無から作り上げたという達成した感動。そして今年も昨年に劣らぬ出演者たちのさわやかな笑顔とそれを見る観客、支える親やスタッフの涙に包まれた歓喜のフィナーレの中で、僕はこれまでの日々を思い起こしていた。
舞台の立ち上げのとき、「高校生」にこだわったのには訳がある。それは終わりのある時間の中でこそ、この作品は輝くと思ったからだ。
誰もが等しく持つ16-18歳という輝かしい季節。その三年間で、僕たちは大人への扉を叩く。目の前には、自由と希望の光に満ちあふれた未来がすぐそこに見えている。その未来を生き抜く術において、人生で初めての選択を行う高校生時代にこそ、故郷をテーマにしたこの舞台を演じてもらいたかった。
華やかな本番の舞台からは想像もつかないほど、日々の稽古は地味かつ地道な作業の繰り返しだ。ただでさえ忙しい高校生。稽古の参加者が二人なんて日もざらにあった。
僕を入れて都合三人で台本を読み合わせる。そりゃ、不安にもさせただろう。ホントにこれがミュージカルになるの? 今思えば、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんな稽古の帰り道、ハンドルを強く握りしめては、今ここをつなげてこそ本番があるんだと自分に言い聞かせた。細く切れそうな糸を紡いで、僕たちの結いが完成するんだと。
旅の終わりはいつも突然訪れる。いつもそんな気にさせられる。
本番前日。最後の稽古を終えた時、出演者の高校生たちの表情にはあきらかな変化があった。誰も口にはせずとも、”旅の終わり”を感じていた。毎日のように通い詰めた稽古場。高校も学年も違うメンバーに、はじめはなじめずに、居心地の悪さも感じた。ふざけ合ったり、ぶつかったり。いつしか当たり前のように自分の中に出来上がっていた”この場所”が、永遠ではないことに突然気づかされる。
口数は少なかったが、その代わりみな優しい表情をしていた。終わりを惜しむ心は、感謝の気持ちへと転化する。何も言わなくてもそれが伝わってきた。
終わりがあるということ。
それは僕たちの人生にも当てはまるのだろう。
いつも、本番なんてまだまだ永遠に先のことだとタカをくくっていると、あっという間にやってきて、あわておののく。
無限に、永遠に続きそうで、全てのものに終わりがあることを知る。それは一縷の悲しみをたたえながらも、僕たちに今日という日がどれだけ愛おしいかを教えてくれる。
終わりがあるから今を愛することができる。
ヒメヒコの感動は、この今を支えてくれるものへの大いなる感謝なのだと思う。
2009 2.26 演出家
春はもうすぐ。
Spring's almost come.
あいさつ周りなどもろもろ。
通い詰めた稽古場は、
また普段の空気に戻っていた。
写真家の日高裕之さんが、
ヒメヒコのオリジナルフォトブックを
作ってくれると言って下さったので、
寄稿した。
終わりがあるという感動
今年も高校生ミュージカル「ヒメとヒコ」の公演が終わった。ちょうど一年越しに実現した二回目の公演。第一回は、無から作り上げたという達成した感動。そして今年も昨年に劣らぬ出演者たちのさわやかな笑顔とそれを見る観客、支える親やスタッフの涙に包まれた歓喜のフィナーレの中で、僕はこれまでの日々を思い起こしていた。
舞台の立ち上げのとき、「高校生」にこだわったのには訳がある。それは終わりのある時間の中でこそ、この作品は輝くと思ったからだ。
誰もが等しく持つ16-18歳という輝かしい季節。その三年間で、僕たちは大人への扉を叩く。目の前には、自由と希望の光に満ちあふれた未来がすぐそこに見えている。その未来を生き抜く術において、人生で初めての選択を行う高校生時代にこそ、故郷をテーマにしたこの舞台を演じてもらいたかった。
華やかな本番の舞台からは想像もつかないほど、日々の稽古は地味かつ地道な作業の繰り返しだ。ただでさえ忙しい高校生。稽古の参加者が二人なんて日もざらにあった。
僕を入れて都合三人で台本を読み合わせる。そりゃ、不安にもさせただろう。ホントにこれがミュージカルになるの? 今思えば、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんな稽古の帰り道、ハンドルを強く握りしめては、今ここをつなげてこそ本番があるんだと自分に言い聞かせた。細く切れそうな糸を紡いで、僕たちの結いが完成するんだと。
旅の終わりはいつも突然訪れる。いつもそんな気にさせられる。
本番前日。最後の稽古を終えた時、出演者の高校生たちの表情にはあきらかな変化があった。誰も口にはせずとも、”旅の終わり”を感じていた。毎日のように通い詰めた稽古場。高校も学年も違うメンバーに、はじめはなじめずに、居心地の悪さも感じた。ふざけ合ったり、ぶつかったり。いつしか当たり前のように自分の中に出来上がっていた”この場所”が、永遠ではないことに突然気づかされる。
口数は少なかったが、その代わりみな優しい表情をしていた。終わりを惜しむ心は、感謝の気持ちへと転化する。何も言わなくてもそれが伝わってきた。
終わりがあるということ。
それは僕たちの人生にも当てはまるのだろう。
いつも、本番なんてまだまだ永遠に先のことだとタカをくくっていると、あっという間にやってきて、あわておののく。
無限に、永遠に続きそうで、全てのものに終わりがあることを知る。それは一縷の悲しみをたたえながらも、僕たちに今日という日がどれだけ愛おしいかを教えてくれる。
終わりがあるから今を愛することができる。
ヒメヒコの感動は、この今を支えてくれるものへの大いなる感謝なのだと思う。
2009 2.26 演出家
春はもうすぐ。
Spring's almost come.